40代の頃は早く50歳になって人生を終わらせたかった。
曰く「人間五十年」‥『敦盛』の受売りである。
しかし終わらなかったw
故に「これからは人生のアディショナルタイムなのだ〜」と嘯き、半笑いで過ごしてきた。
それからはあっという間。
2014年。50過ぎたのを機に「防災特化型放送局」というコンセプトを打ち立てて、熊本市西区(熊本駅前)にコミュニティ放送局を設立せんと準備を始めた。
秘密裡に独り歩き回り、開局準備に必要な電界強度などのデータを集めて回った。
2015年。ほぼデータが揃った。
ご紹介を受けて複数のリッチ系篤志家殿に事業計画試案などを話し始めていた。
「なんか、イケそうだね!」‥そんなことをFMC副代表(当時)と話すまで進捗していた。
だが遅かった。
2016年4月。凡そ100年周期の大地震(熊本大分大地震)が「先」に攻めてきた。
防災特化型放送局の計画自体「100年に一度の大地震に備える」それが最大目標であり希求する最大の戦果のはずだった。
しかし及ばず。見事な大敗北だった。
2000回にも及ぶ大小様々な余震が張り詰めた心を疲弊させ、やがて私は放心状態に陥った。
そんな状態から救い上げ、炊きつけてくれたのは、国内外のFMCリスナーたち。
彼らからの熱い激励と想定外の義援金が「神の手」となって私たちの背中を押したのである。
天井を見上げれば、ずれた壁の隙間から青空が覗くような、尋常じゃない「大破スタジオ」に寝泊まりしながら移転先(みなし仮設住宅)を探す日々が始まった。
ある種の闘争本能が覚醒していた。
奇跡的に見つかった移転先(現在の新南部スタジオ)への引っ越し作戦(2016-ケ号作戦)は体力的にも苛烈を極めたが、2016年7月に作戦完了。FMCの放送は継続する事が叶った。
この一連の流れの中で「マスメディアの災害に対する意識の低さ」に憤り、なんとかしなければと思うようになっていた。
また、「絆」という必殺キーワードで人々に苦難を耐えさせようとする行政の傲慢さも私の怒りに火をつけた。
だから次なる「主戦場」を選ぶことにした。
2019年3月末日。私は大阪に単身移動した。
人生のアディショナルタイムどころか「大舞台」に乗り込んだわけだ。
いずれ来るであろう大災害。その坩堝(るつぼ)となる可能性がある近畿圏(とくに大阪)。
メディアも行政もそして市民自体もその意識は極めて脆弱。ぬるいまんまである。
縁あって入社した全国展開の放送事業社の拠点長は「防災の知見を活かしていろいろやってください」と私に語ってくれた。
今その延長線にあるもの‥それが『IBB独立放送旅団』なのかもしれない。
昨夜、私が主宰する私塾『榎塾』の塾生の皆さんとのオンライン会議で、
・NPOや様々な市民団体とのネットワーク構築を進めること。
・それらの組織の広報部門その下支えとしてIBBが威力を発揮すること。
などなど。いろいろな提言をもらった。
地域、文化芸術、福祉、環境、経済、そのほか諸々。
全てに繋がるキーワード‥それは「防災・減災」である。
2024年。私たちIBB最大の活動テーマはやっぱり「"災害"という"最大の仮想敵"からの"防衛"」ってことになると思う。
もうちょい短い表現にするとは思うけどw